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高すぎる跳び箱


いよいよ青学での大学院生活が始まった。前期(7月中旬まで)は、5科目をとることとした。10教科ほどに興味があったが、仕事との兼ね合いと時間帯を加味して選択した。その中に、「マネジメント論」と「企業倫理とCSR」という科目がある。

 学卒の院生2,3人と教授との事前レポートを準備して臨む少人数ディスカッション形式の授業だから、気が抜けない。サボったらすぐばれる。いや、サボるどころか、いまのところ、むさぼるように食いついている。ずっと学びたかった教科だからだ。

 CSRの授業では、アダム・スミスの『国富論』をざっとなめた上で、現代経営の考え方との違いを話し合うことから始まった。スミスの考えていた企業倫理とはどのようなものか。18世紀のスコットランドが舞台であり、その時代背景とビジネスを思い浮かべながらの議論となる。小生のことを、経営者であることを知らないうちに、教授から心臓を一突きされた。

 「企業は、社会の僕であるはずだった」。しばらく、次の言葉が出なかった。・・・しもべ?・・・そうか、そこまで言われるか。じゃ、経営者というのは、社会からの命令と管理の下に経営をし、失敗したらすべての責任をとらされる、というなんとも割の合わない仕事じゃないか、と思えてしまった。
いやいや、逆かもしれない。企業を今のような形にしたのはこの時代の私たちであって、以前は違ったであろう。18世紀の企業人は、「そこまでやるか」と私たちの行状を見ているのかもしれない。しかし、いまの私にその感覚はわからない。

マネジメント論の教授から「いま、経営学で注目を集めている経営論がこれです」と紹介されたのは、東大の高橋伸夫教授の『コアテキスト 経営学入門』で、小樽商科大卒から東大教授になった51歳(小生と同い年)気鋭の経営学者らしい。日本における成果主義の挫折を解き、年功序列、終身雇用、長時間労働は日本特有の経営手法であり、これらを復活させるべきと説いている。しかも、さまざまな反論にさらされて、その存在を認められたらしい。ここで心臓に2本目の槍を立てられた思いがした。

詳しい内容は、まだわからない。真正面から、対峙しようと思ってはいるが、相当の勇気が要りそうだ。上記の2論について、小生も現在の経営様式にもってくるまで、時には社員と対立し、眠れぬ夜を過ごしながら、折り合いをみつけて作ってきた。社員にも小生にも、苦心の産物であった。それをいとも簡単に否定されてしまう。心底悔しい、のである。「机の上で、理屈を捏ね回しているあなたたちに何がわかるんだ!」という言葉が、口をついてしまう。

しかし「学舎の中でそれを言ったらおしまい」だ。そうせずして、どのように上記2論とわが経営の差異を見出し、分析し、何を学び取るのか。悔しさと不安と期待で胸が張り裂けそうなのだ。

実践の経営と理論の経営、いずれが上下ということはなかろう。しかし、実践の経営は理論によって補完される、と考えると、やはり理論の経営のほうが高次であり、完全性が高いと思われ、なんとも度し難い。反対に、理論の経営は、実践によって裏付けられる、と言うと学者たちは納得しないだろう。

ここはひとつ冷静に、役割が違う、という解釈をしようと試みている。理論も実践も社会をリードしており、互いに影響しあい、向き合った鏡のようなものと考えてみようと思っている。だが、冷静さを保てる自信は、まだない。早朝に本を読みながら、「そんなばかな」「それは違う」と叫ぶ自分にハッとするのである。

ただ、これこそが小生に足らなかったものであり、難問の嵐の中で、新しい自分の経営を探っていかなければならない。いま、眼前に大きな跳び箱が立ちはだかった。10数段もある。果たして跳べるか? 今までの私では跳べない。殻を破る大きなチャンスか。苦しい自問自答が始まった。
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